所在地:長崎市西小島1丁目7-25(仁田佐古小学校下)

唐人屋敷

唐人屋敷の斜面地から長崎港を眺望した写真です。明治初期の撮影と思われます。画面左手の刹竿(せっかん)が立つところが土神堂(どじんどう)で、中央にみえる橋が、明治2年(1869)に架けられた梅香崎橋(うめがさきばし)です。同橋の左に梅香崎の居留地の洋館が見え、右手には新地蔵(しんちくら)が並び、その向こうには出島がみえます。同橋の手前の入り江は、現在の湊公園付近。館内町一帯は、中国の人たちが前面の広馬場や新地・大浦居留地に進出したため、空き地化していた様子がうかがえます。

江戸時代の唐人屋敷第二門前の様子が描かれています。ここでは、唐人相手に浦上村などの住人が生活用品の売買を行うことが許されていました。画像を見ると魚や野菜、燃料となる薪の他に鳥などの肉が売買されています。この時代、獣肉食は一般的に禁忌とされていましたが、長崎の町は肉食を行う中国人やオランダ人と密接に関わっていたこともあり、食用の鳥や豚などの飼育や売買が行われていました。

長崎くんちの代表的な奉納踊りの一つである龍踊は、唐人たちが正月十五日(上元の日)に唐人屋敷内の土神堂前広場で行っていたものです。これを隣接する本籠町の町人が唐人たちから習って長崎くんちに奉納するようになりました。画像では、土神堂前広場で唐人たちが龍踊を行っている様子を描かれています。

唐人屋敷は、密貿易の増加のため唐人の居住地区を制限する目的で、寛永10年(1688)長崎郊外にある十善寺郷に建設され、翌年完成しました。画像には、土神を祀る土神堂、媽祖を祀る天后堂、観音並びに関帝を祀る観音堂のお堂が見えます。これらは、船主が許可を得て自普請により建設したもので、後年の火災により失われた後に再建され、現在では市指定史跡となっています。

彩船流しは、長崎の年中行事の一つである精霊流しの基になったと言われる唐人の儀式で、小流しと大流し2つが行われていました。小流しは、日本に船が来るまでの間に嵐で船が危なくなり、これを切り抜けた際に神仏に感謝を捧げるため行われました。大流しは、日本で亡くなった唐人の魂を慰めるために行われており、魂となっても故郷に帰るという願いが込められています。