所在地:長崎市松山町1-5

爆心地の松山町交差点

被爆当時、駒場町(こまばまち)(現・松山町)には約230世帯、昼間人口3,700人余りの人々が暮らしていました。しかし、町の全域が爆心地から500m圏内という至近距離のため、即死を免れた1名の生存者も3日後には亡くなり、生存者は皆無となりました。戦後、長崎に進駐した米軍は10月初旬、駒場町の陸上競技場付近の焼け跡に簡易飛行場を建設し、「アトミック・フィールド」と呼びました。飛行場は、わずか1週間で建設され、住民は米軍の機動力に眼を見張るとともに、未だ収容されていない数多くの遺骨を思い暗然としたといいます。

画像は昭和23年(1948)1月13日の幸町から大橋町までを撮影した航空写真です。原爆投下から3年経っても爆心地附近の大部分がまだ焼野原の状態であったことがわかります。また、駒場町をまっすぐ突き抜ける直線は進駐軍の飛行場滑走路であった「アトミック・フィールド」です。

原爆による復興に莫大な費用が必要であった長崎市は、財源確保から競輪場設置を諮り、昭和24年(1949)9月に全国で15番目の競輪場として長崎市営競輪場が誕生します。場所は、原爆の被害により焼野原となっていた駒場町、現在の長崎市営ラグビー・サッカー場です。